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東京高等裁判所 平成9年(う)1555号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は弁護人井窪保彦、同本多広和が連名で提出した控訴趣意書及び被告人が提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は検察官山本弘が提出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

一  訴訟手続の法令違反の主張について

論旨は、要するに、科学警察研究所技官瀬戸康雄ほか二名作成の鑑定書(甲二四八、三五〇の二通でいずれも謄本。以下に引用する書証もすべて謄本である。)及び警視庁科学捜査研究所薬物研究員服藤恵三作成の「第七サティアン化学プラントについての分析」と題する書面(甲三六九)は、いずれも刑訴法三二一条四項の鑑定書に該当せず証拠能力がないのに、これらに基づき、宗教法人オウム真理教(以下「教団」という。)が山梨県西八代郡上九一色村所在の教団施設第七サティアン内に設置したサリン生成用化学プラント(以下「本件プラント」という。)においてサリンが生成されたとの事実を認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。

しかしながら、瀬戸康雄及び服藤恵三の原審証言並びに甲二四八、三五〇及び三六九の書面によれば、これら書面は、いずれも、毒劇物等の分析、研究の職務に従事する瀬戸、服藤らが、その有する専門的知識を基にして、鑑定資料の毒物含有の有無等につき鑑定した結果を記載し、あるいは、本件プラントがサリン生成プラントであるかどうか、本件プラントにおけるサリン生成の能否等について分析、検討した結果を記載したものであって、刑訴法三二一条四項の書面に該当すると認められる。

1  所論は、甲二四八の鑑定書につき、鑑定書に記載された鑑定資料の採取場所が鑑定嘱託書(甲二四六)に記載された場所と食い違うこと、鑑定書には鑑定資料を保存する瓶に18という数字が書かれていたとあるのに採取状況報告書(甲二四五)には瓶に数字を書いたとの記載がないこと、18という番号は捜索差押調書(甲二四四)に添付の押収品目録の番号四とも一致しないことを挙げて、その鑑定手続が適正さを欠くとともに鑑定資料がどこから採取されたのかがあいまいであるという。しかし、所論指摘の各書面及び資料採取に当たった沼田竜市の原審証言によれば、沼田らが第七サティアン外周部北面東側のパイプのバルブから液体を採取してサンプル瓶に入れ、その瓶に18と記載するとともに採取場所をメモ書きにして特定したこと、採取状況報告書(甲二四五)は沼田らによる液体の採取場所や採取状況を図面と写真を付して明らかにしたものであること、捜索差押調書(甲二四四)に添付の押収品目録の番号四には「薬品と認められる水溶液(東側パイプのバルブ内のもの)」との記載があること、鑑定嘱託書(甲二四六)には鑑定資料として「薬品と認められる水溶液(但し、東側パイプのバルブ内のもの)」との記載とそれが沼田を介して採取し差し押さえた第四号物件である旨の記載があること、鑑定書には鑑定資料として「水溶液(但し、第七サティアン1階北側外にあるパイプのうちの東側バルブ内のものを採取したもの)」との記載があることが認められる。したがって、鑑定資料は沼田らが第七サティアン外周部北面東側のパイプのバルブから採取した液体であり、鑑定資料の特定に欠けるところはなく、採取状況報告書(甲二四五)には瓶に18という数字を書いたとの記載がないとか、18という番号が捜索差押調書(甲二四四)に添付の押収品目録の番号四と一致しないとか等の所論指摘の事情は、鑑定手続の適正さに疑問を生じさせる事情とはいえない。

2  所論は、甲三五〇の鑑定書につき、鑑定書には鑑定資料が無色透明のガラス容器に入れられ「RE501B反応釜」「じく続手カップリング部」等と記載されたラベルが貼られていたとあるのに、宮嵜澄男作成の採取状況報告書(甲三四七)にはビニール袋に入れて保存したとあるのみでガラス容器に入れたことやラベルを貼ったことについての記載が全くないこと、採取物受渡しの状況が客観的に明らかでないこと、採取物を入れた瓶が封印されておらず、中身の入替えが可能な状況にあったことを挙げて、採取物と鑑定資料との同一性が保証されておらず、その鑑定手続が適正さを欠くという。しかし、資料採取に当たった宮嵜澄男の原審証言によれば、宮嵜らがRE501B反応釜の軸継手カップリング部から付着物を採取してサンプル瓶に入れ、その瓶に採取場所等を書いたラベルを貼り、これをビニール袋に入れたが、採取状況報告書(甲三四七)にはビニール袋に入れたという結果だけを書いたこと、この付着物は採取されたその日に直接科学捜査研究所に持ち込まれたこと、鑑定書添付の写真に写っているサンプル瓶は宮嵜らが軸継手カップリング部から採取した付着物を入れた瓶に間違いないことが認められる。このサンプル瓶に封印がされていなかったことは事実であるが、中身が入れ替えられたなどと疑うべき事情は認められない。鑑定資料は、宮嵜らがRE501B反応釜の軸継手カップリング部から採取した付着物と特定され、その鑑定手続の適正さに疑問を生じさせるような事情は見いだすことができない。

3  所論は、甲三六九の「第七サティアン化学プラントについての分析」と題する書面につき、これは証拠能力を有しない甲二四八及び三五〇の鑑定書に依拠して作成された書面で科学的信頼性を欠くこと、作成者の服藤は警察特別捜査本部の派遣職員として捜査の初期の段階から深く関与していた者で鑑定人に要求される中立性を欠くこと、捜査機関からの鑑定嘱託手続を受けていないことを挙げて、証拠能力がないという。しかし、前述のとおり甲二四八及び三五〇の鑑定書には証拠能力があること、作成者の服藤は特別捜査本部の派遣職員であるにしろ専門的知識を有する者として鑑定人の資格があること、服藤の原審証言によれば、特別捜査本部長から服藤に対し口頭で鑑定嘱託がされたと認められることからして、この書面につき鑑定書としての証拠能力を認めることに問題はないというべきである。

4  付言すると、原判決は、事実認定の補足説明の中で、原審弁護人の主張に対する判断として、本件プラントの第五工程が稼働してサリンが生成されたと考えるのが合理的というべきである旨の説示をしている。しかしながら、罪となるべき事実としては、被告人らがサリンの生成を企てたとの公訴事実と同じ事実を認定し、サリンを生成したとの事実までは認定していない。そして、右の説示に先行して、本件プラントにおいて実際にサリンが生成されたか否かにかかわらず被告人らの判示行為が殺人予備罪として可罰性を有する旨の説示もされている。これを要するに、原判決は、サリンを生成しようとしたことを犯罪事実と認定したのであって、現にサリンが生成された旨の説示部分は、原審弁護人の主張に答えたという意味合いのものと解される。甲二四八、三五〇及び三六九の書面は、本件プラントの稼働によりサリンが生成されたかどうかの検討資料であるが、同時に、サリンを生成しようとした事実の証明にも役立つ証拠であるので、その証拠能力について検討を加えたものである。

原判決に訴訟手続の法令違反はなく、論旨は理由がない。

二  事実誤認の主張について

論旨は、要するに、原判決は、教団に所属する被告人が、不特定多数の者を殺害する目的で、教団代表者A及び教団所属の者多数と共謀の上、平成五年一一月ころから平成六年一二月下旬ころまでの間、第七サティアン及びその周辺の教団施設等において、同サティアン内に設置するサリン生成用の化学プラントの工程等の設計図書類の作成、プラントに用いる資材、器材及び部品類の調達、その据付け及び組立て並びに配管、配電作業を行うなどして本件プラントを完成させ、さらに、サリン生成に要する原料のフッ化ナトリウム、イソプロピルアルコール等の化学薬品を調達し、これらをサリンの生成工程に応じて本件プラントに投入し、これを作動させてサリンの生成を企て、もって殺人の予備をしたとの事実を認定しているが、被告人につき殺人予備罪は成立しないというべきであるから、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。

しかしながら、原判決が掲げる証拠によれば、原判示の事実は優にこれを認めることができる。所論に即して説明を加えるが、まず、右の証拠から次のような事実が認められる。なお、関係者はいずれも教団所属の者である。

<1>  教団代表者のAは、平成五年夏ころまでに、幹部のBらと共謀して大量殺人を企て、有機リン系の神経ガスでごく少量でも生命に危険がある猛毒のサリン七〇トンを生成することを計画した。その実現に向け、Cらが、サリン生成工場となる第七サティアンの建築を行い、同年九月ころに完成させた。また、Dが、効率的で量産可能な五工程から成るサリン生成方法を考案し、同年一一月に、第七サティアンに近接するクシティガルバ棟でサリンの生成に成功した。Bらは、実際に、Dが生成したサリンを自動車に積載した噴霧器でまく方法により対立関係にある宗教法人関係者の殺害に使用しようとしたが、噴霧器の性能が悪く失敗に終わった。このDがサリンの生成に成功した同年一一月までの間に、Eらが、サリンの生成に必要な大量の化学薬品を含む原材料の購入を始めていた。

<2>  Aは、従前からハルマゲドン(人類最終戦争)のぼっ発を予言し、平成五年末ころからは、教団が毒ガス攻撃を受けていることなどを説いていたところ、平成六年二月下旬に被告人を含む科学技術省のメンバーや厚生省のメンバー等約八〇名とともに中国旅行に赴いた際に、上海のホテルで、「ある魂が悪業を積もうとしているとき、その命を絶ってしまうことは善業である。救済のためには手段を選ばない。」などと説法した。そして、同旅行から帰った翌日ころ、Bや本件プラントの設計責任者のFらを集めて、プラントの具体的設計作業を急がせるとともに分野ごとの担当者を決め、被告人をプラントの電気関係設計担当者に指名し、これが被告人に伝えられた。それから、Bが、被告人ら設計担当者に対し「あるプラントを設計してもらう。今回作るプラントはDの方で実験済みであり、それをプラント化するだけだ。Dがこの実験の最中に死にかけた。この作業をやりたくない者は正直に言ってくれ。」などと説明した。

<3>  被告人は、以後平成六年五月ころまで、教団施設の清流精舎三階にある関係者以外立入禁止の部屋で、五工程の電気制御に関するプログラムの製作等を行ったが、その間に、Fから、プラントの機器類、配管状況、配管の各所に使われているセンサー類、バルブ類が記載された図面(P&Iダイヤグラム)を示され、各工程の作動手順、薬品の流れなどについての説明を受けた。同年五月末か六月ころからは、第七サティアンに移って二階の制御室に寝泊まりし、既に同年三月ころから始まっていた本件プラントの建設作業に参加し、配線のチェック、各ポンプ類の作動テスト等に当たった。この制御室には、各工程のバルブの開閉等の作動状況、原材料の科学薬品名等が表示されるモニターが設置されていたほか、「化学兵器原材料物質」と記載された五塩化リン等を掲載した商品カタログが置いてあり、被告人もこれらを見ていた。

<4>  サリン七〇トンの生成に必要な原材料は、本件プラントの建設作業が始まるころまでにほぼそろえられた。また、同年六月ころには、本件プラントの各工程の機器類等の設置、配管作業なども一通り終わっていた。そのころから、まず第一工程の試運転が開始され、被告人は、B、Fらとともにこれに立ち会い、電気系統のチェックや異臭発生等の数多くのトラブルヘの対応に当たった。

<5>  Aは、同年七月末ころ、本件プラントの稼働要員に指名した被告人を含む十六、七名に対し「死を見つめることができるか。やりたくなかったらやらなくていいぞ。」「これを使えば、どこかの大都市が破壊される。ボタン操作一つ間違えると、富士山麓が死の海になる。」などと述べた。その後間もなく、稼働責任者のGから、被告人を含む稼働要員に対し、各工程の構造、生成物等についての説明があり、Gは、この説明の中で、最終生成物の名前までは明らかにしなかったが、「第三工程辺りから次第に危なくなってくる。工程が進むにつれて危険な物質になってくるので注意するように。最終生成物は、無色無臭のため吸入しても分からない。症状としては、視界が暗くなったり、体が動かなくなり、最終的には、呼吸ができなくなって死に至る。」などと言った。以後、稼働要員は、第七サティアンに常駐して本件プラントの稼働作業に従事したが、その内容がもれないように外出禁止などの態勢が敷かれた。

<6>  本件プラントは、第一工程から順次稼働を始め、同年一二月までに、少なくとも第四工程までが稼働し、中間生成物であるメチルホスホン酸ジクロライド(ジクロ)やメチルホスホン酸ジフルオライド(ジフロ)が生成された。

<7>  被告人は、制御室に泊まり込むようになってから同年一二月三〇日未明に退去するまでの間、前記のとおり配線のチェック、各ポンプ類の作動テスト、第一工程の稼働の立会いなどをしたほか、制御装置へのデータの入力、第二ないし第四工程の稼働への関与もした。そして、本件各工程で使用される五塩化リンを含む原材料名、ジクロやジフロという中間生成物の名称を認識しており、最終生成物についても、それがジクロ、ジフロ及びイソプロピルアルコールの混合かくはんにより生成されるものであることを知っていた。

以上の諸事実に基づき、所論に対する判断を示す。

1  所論は、いまだ本件プラントの建設にも着工していない平成五年一一月ころから殺人予備罪が成立するとした点において、原判決には誤りがあるという。しかし、平成五年一一月ころの段階では、既にサリン生成工場としての第七サティアンが完成していたこと、効率的で量産可能な五工程から成るサリン生成方法が考案されてその生成に成功していたこと、七〇トンのサリンの生成に向けて必要な大量の原材料の購入が始まっていたことの諸事情が存するのであって、Aらが企図した殺人の実行行為に不可欠なサリンにつき、その生成工程がほぼ確立され、量産へ向けての態勢に入ったものといえるから、同時点以降のサリンの大量生産に向けてされた諸行為は、大量殺人の実行のために必要であるとともにその実行の危険性を顕在化させる準備行為として殺人予備罪に該当すると解される。このような観点からして、原判決が殺人予備行為の始期を平成五年一一月ころと認定したことに問題はないといえる。

2  所論は、本件プラントの第四工程が稼働したのは一回だけであり、しかも同工程に構造上の欠陥があったため生成されたジフロが回収されなかったし、第五工程は全く稼働していないということを挙げて、本件プラントは未完成であったから殺人予備罪が成立しないというが、右のとおり、平成五年一一月ころ以降のサリンの大量生産に向けてされた諸行為が殺人予備行為と評価されるのであって、所論指摘のような事情は殺人予備罪の成否に影響を与えない。なお、所論は、原判決が、事実認定の補足説明の中で、本件プラントの第五工程が稼働してサリンが生成されたと考えるのが合理的というべきである旨の説示をしている点をとらえ、そのようなサリンの生成の事実はないとして原判決の事実誤認をいうのであるが、既述のとおり、原判決は、罪となるべき事実としては、サリンを生成したとの事実までは認定していない。その上、実際に本件プラントからサリンが生成されたかどうかもまた殺人予備罪の成否を左右しないというべきであるから、仮にサリン生成の事実がなかったとしても、そのことは判決に影響を及ぼさない。所論は、また、平成七年一月一日の時点で、本件プラントが未完成のまま閉鎖され殺人の実行に着手することが不可能になったから、殺人予備罪は成立しないともいうが、そのようなことによって平成五年一一月ころから平成六年一二月下旬ころまでの間にされた殺人予備行為が不可罰になるわけのものではない。

3  所論は、被告人には本件プラントの最終生成物が毒ガスであることの認識が全くなく、殺人予備の犯意が認められないといい、被告人も、最終生成物が危険なものであることの認識はあったものの農薬か殺虫剤程度のものと考えていたと供述している。しかし、被告人は、ハルマゲドンが近いことや教団が毒ガス攻撃を受けていることなどを説くAが「ある魂が悪業を積もうとしているとき、その命を絶ってしまうことは善業である。救済のためには手段を選ばない。」などと説法するのを聞いた後、すぐにプラントの電気関係設計担当者に指名され、Bから「あるプラントを設計してもらう。今回作るプラントはDの方で実験済みであり、それをプラント化するだけだ。Dがこの実験の最中に死にかけた。この作業をやりたくない者は正直に言ってくれ。」などとの説明を受けて、本件プラントの建設作業に加担することになり、Fから五工程の作動手順、薬品の流れなどについての説明も受けていたものであることにかんがみ、既にこの段階から、本件プラントの最終生成物が人を死亡させるような危険物であることの認識を持っていたとの推認が可能である。その後本件プラントの稼働要員に指名され、Aから「死を見つめることができるか。やりたくなかったらやらなくていいぞ。」「これを使えば、どこかの大都市が破壊される。ボタン操作一つ間違えると富士山麓が死の海になる。」などとの説明を、Gから「第三工程辺りから次第に危なくなってくる。工程が進むにつれて危険な物質になってくるので注意するように。最終生成物は無色無臭のため吸入しても分からない。症状としては、視界が暗くなったり、体が動かなくなり、最終的には呼吸ができなくなって死に至る。」などとの説明を受けるに至った段階では、本件プラントの最終生成物がサリンであるとその名称まで知っていたかどうかは別にして、一挙に大量殺人ができる毒ガスのような極めて危険な化学薬品であることの十分な認識があったと認められる。被告人の弁解するところによると、Gの稼働要員に対する説明は聞く必要があると思ったが、一方、交替して第七サティアンを出ていく者から急いで作業を引き継ぐ必要もあったので、Gの右の説明が行われる前に席を外していて、それを聞いていないというのであるが、Gの説明内容が稼働要員の生命にも関わることで全員に周知徹底しなければならない重要なものである上、Gは稼働要員にノートを配ってその説明内容を書かせたことが証拠上認められるのであって、そのような大事な説明の途中で他の者と作業の引継ぎをするために退席するなどということは、いかにも不自然で信用し難い。このように最終生成物が大量殺人以外に用途のない毒ガスのような化学薬品であるとの認識の下にそれの生成に向けた作業をすることが殺人を意識した準備行為に当たることについては、多言を要しない。被告人は、遅くともこの段階までに、Aらが企図した大量殺人について自らもその予備行為をする旨の犯意を抱いていたものというべきである。

4  その他の所論を逐一子細に検討しても、採用するに由ない。

原判決に事実の誤認はなく、論旨は理由がない。

三  法令適用の誤りの主張について

論旨は、要するに、被告人につき平成七年法律第九一号による改正前の刑法二〇一条本文(一九九条)を適用した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令適用の誤りがある、というのである。

しかしながら、原判示事実は殺人予備に当たるので、原判決が右の法条を適用したのは正当である。

1  所論は、そもそも原判示事実は殺人予備罪に該当しないというが、それが殺人予備に当たることについては、先に説明したところである。

2  所論は、殺人予備罪が成立するためには予備行為を行った者が自ら殺人を実行する目的を有していることが必要であるから、大量殺人の目的を有しない被告人に殺人予備罪の成立を認めることはできないという。しかし、殺人予備罪の成立には、自己の行為が殺人の準備行為であることの認識があれば足り、その殺人が自ら企図したものであるか共犯者である他の者が企図したものであるかは、その成否を分ける要件ではないと解される。したがって、被告人自身に大量殺人の意図がなくても、自己の行為がAらの企図する殺人の準備行為であることの認識がある以上、殺人予備罪が成立するといわなければならない。

3  所論は、仮に他人の企図する殺人のための準備行為が殺人予備に当たるとしても、殺人予備罪として処罰するには、予備行為を完了してその成果を殺人を企図する者に提供することが必要であるから、そのようなことをしなかった被告人に殺人予備罪を適用することはできないというが、既述のとおり、実際にサリンが生成されたかどうかは殺人予備罪の成否を左右しないというべきであって、これと見解を異にする所論は採用しない。

4  所論は、被告人に自らが関与するより前の他の者らによる行為について責任を負わせることはできないというが、被告人が他の者らにより殺人予備が行われていることを認識して共謀に加わった以上、それ以前の予備行為についても共同正犯としての責任を免れないというべきである。

原判決に法令適用の誤りはなく、論旨は理由がない。

よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 神田忠治 裁判官 長岡哲次 裁判官 大沢 廣)

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